フレンチ・パラドックス

カテゴリ: 歴史

シンデレラは、1697年にシャルル・ぺロー(Charles Perrault)が中世のヨーロッパの物語を元に作られた童話です。原題は、Cendrillon ou la Petite Pantoufle de verre(薄汚い娘またはガラスのスリッパ)です。

ぺローのシンデレラのガラスの靴については、19世紀以降様々な議論が巻き起こりました。まず、スリッパというのは、王子様が主催するようなパーティーでダンスをするような靴ではなく、エレガントでも何でもない家の中で履く履き物です。

議論の発端は、1841年にバルザックが自身の作品の中で、皮革職人(Pelletier)「ガラス(verre)の靴なんて存在するはずがないのだから、内側にリスの毛皮(vair)の張ってある靴に違いない」と話していることが発端になりました。国立科学研究センター(CNRS: Centre national de la recherche scientifique)とガリマー(Gallimard)が編纂した『フランス語宝典(Trésor de la Langue Française)』によると、リスの毛皮(vair)は、「背中が灰色でお腹が白いリスの毛皮で、中世は王族や公爵、領主などの高官が用いた」ものです。上記のバルザックと、アナトールフランスは、ガラスの靴ではなく、内側に毛皮をあしらったスリッパだと考えるのが妥当(Balzac, Martyre de calviniste, 1841, p.53(バルザック、『カルバン主義者の殉教』、1841年、53ページ)、Anatole France, Livre de mon ami, 1885, p.321(アナトール・フランス、『わが友の書』、1885年、321ページ))と主張しています。

 

エジンバラ大学の芸術史のジュヌビエーブ・ワービック(Genevieve Warwick教授が2022年に出版した、『シンデレラのガラスの靴:ルネッサンス期の実在する諸物の文化史に対して(La pantoufle de verre de Cendrillon : vers une histoire culturelle des matérialités de la Renaissance)』では、「ガラスのスリッパはエスプリの効いた冗談(La pantoufle de verre est une blague pleine d'esprit)で、ガラスの靴なんて履いていたらダンスをするどころか歩くことができる人なんかいません(Personne ne pouvait réellement marcher, et encore moins danser avec des chaussures en verre.)と記しています。

教授は、ぺローが童話を執筆する前はルイ14世(Louis 14)の時代で、ベルサイユ宮殿の全長73メートル、357枚の鏡が嵌め込まれている鏡の間(Galerie des glaces)を頭に描いていたのではないかと想像しています。当時鏡は非常に貴重で高価な品物で、ヴェネチア(Venise)から輸入していました。ヴェネチアのガラス製造技術を盗んで、フランスでも鏡を製造できるようになりました。シンデレラがガラスの靴がきっかけで王子様と結婚して幸せになったのは、フランスでガラスが製造できるようになったことを重ねているのではないかと言うのです。というのも、今まで貴族は流行の服を作るのに記事を外国から輸入すると罰金が科せられましたが、自国で賄うことができれば罰金を払う必要もなくなり、貴族は安心してフランス製品を使うことができるようになったからです。

 

 

参考文献:

Trésor de la Langue Française, tome 16, Dictionnaire de la langue du 19eme et du 20eme siècle, CNRS.

Rédaction de Vanity Fair, La pantoufle de verre de Cendrillon est une satire de la royauté française, 19 décembre 2022., https://www.vanityfair.fr/actualites/article/la-pantoufle-de-verre-de-cendrillon-est-une-satire-de-la-royaute-francaise

カマンベールチーズは、直径10,5 センチから 11,5センチで、厚みが3 cmの円形のチーズです。

カマンベールチーズは、ノルマンディー(Normandie)地方のカマンベールという村の名前から付けられています。

伝説では、マリー・アレル(Marie Harel)がカマンベールチーズを発明したと言われています。1791年に、ブリチーズ(Brie)の生産地であるクロミエ(Coulommiers)から、ピエール・グブス宣誓拒否司祭(prêtre réfractaire)がカマンベール村に逃れて来て、マリーの家に匿ってもらうことになりました。その代わり、すでにチーズを作っていたマリーに、クロミエで作っているブリチーズの作り方を伝授したのです。そこで彼女は、リヴァロ(Livarot)の型を使って、カマンベールを作ったのです。

しかし実際には、カマンベールチーズはすでにそれよりも前から作られていて、1708年に出版された『世界地理歴史辞典(Dictionnaire Universel Géographique et Historique)に』トマ・コルネイユ(Thomas Corneille)は、「毎週月曜日、ヴィムーティエの大きな市場に、カマンベール地方の素晴らしいチーズが運ばれてくる」。その当時、どこでも、「...地方の」チーズがあり"qu'il se tient à Vimoutiers tous les lundis, un gros marché où l'on apporte les excellents fromages du pays de Camembert". Comme partout à cette époque, les fromages du "païs de ..."」と記しています。18世紀及び19世紀は、多くのチーズ生産者が、他のチーズとの差別化を図るために、土地の名前を付け、独自の形に作られていました。チーズは農家で生産されていましたが、チーズの仕上げ工(affineur)が買い上げ、販売するために白くしていました。

1855年にパリとリジュー(Lisieux)・カン(Caen)の間に鉄道が開通すると、チーズが地元だけでなく、少し離れた都市まで売られていくようになりました。また、カマンベールチーズの評判が伝わり、1870年以降は、ノルマンディー地方以外でも生産されるようになりました。そのため、カマンベールと名乗ることのできるチーズを限定する活動を目的として、1909320日、リジューで「本物カマンベール生産組合(Syndicat des Fabricants de Véritable Camembert de Normandie (S.V.C.N.))」が発足しました。

1924719日、ロッシュ(Loches)裁判所は、「カマンベールチーズは18世紀から作られているが、いろいろな場所で「カマンベール」という呼称でチーズが製造され、今まで法的に名称が制限されたことはなかった」として、S.V.C.N.の訴えを退けました。1926120日、オルレアン(Orléan)高裁は、「カマンベール」の名を製造地として記することを義務付ける判決を出すことに留まりました。

第二次大戦後、低温殺菌(pasteurisation)技術の発達により、フランス中でカマンベールチーズが作られるようになりましたが、カマンベールの原産地呼称統制(Appellation d’origine contrôlée : A.O.C.)が認められたのは1983年になってからでした。

カマンベールチーズは、もともと生乳(lait cru)または低温殺菌した乳を原料として作られていましたが、2007年、プレジドン(Président)、ガルバニ(Galbani)、ラクテル(Lactel)、ソシエテ(Société)などから成るグループラクタリス(Lactalis)グループとイジニ―・サント・メールIsigny-Sainte-Mère)協同組合は、「健康に害が及ぶ可能性」を理由に、生乳での生産を中止しようとしました。ノルマンディー・カマンベール製造組合(Syndicat des Fabricants de Camembert de Normandie)はこれを拒否したため、イジニ―・サント・メール(Isigny-Sainte-Mère)協同組合は、精密ろ過法(lait microfiltrélait microfiltréで「ジェネリック・カマンベール(camembert générique)」の製造を再開しました。

2021年現在、欧州連合統一原産地名称保護制度における地理的表示である保護原産地呼称(Appellation d'Origine Protégée : AOP)で保護されたノルマンディーのカマンベールを作っている農場はわずか4件だけです。

 

参考文献:

Jean Vitaux, Les petites plats de l’histoire, « La Constitution civile du clergé à l’origine du Camenbert », pp.152-153, Puf, décembre 2011

Institut national de l’Origine et de la qualité : https://www.inao.gouv.fr/produit/4204

Camembert (fromage), Wikipédia : https://fr.wikipedia.org/wiki/Camembert_(fromage)

フランスの所得税は、第一次大戦のための出費と戦後の復興のために、1914715日の税法で所得税が制定され、同年718日の官報(Journal officiel de la République française )で公表され、1916年から課税されるようになりました。

所得税の導入により、『戸窓税』(Impôt sur les portes et fenêtres)の徴収は1926年に廃止されました。この法律はフランス革命後の17981124日に制定されたもので、公道、中庭、牧草地などに面した窓に課税されました。農業関係の建築物、地下室、天井に作られた窓や、公共施設は課税を免除されました。税金逃れのために、小さい窓しかなく、通気が悪かったり一日中明かりが射さない住居が建てられることで、非常に物議の多かった法律でしたが、イギリスやスペインでも同様の法律が存在しましたが、スペインでは1910年に廃止されました。

イギリスでは1696年に富裕税(Impôt sur la fortune)として制定されました。特にロンドン(Londres)での住環境が悪化し、幼児のビタミンD不足によるくる病(rachitisme)や骨組織の形成の問題が深刻になり、1851年以降は徴収されなくなりました。ヨーロッパでは当時、くる病のことを「イギリス病(la maladie anglaise)」と呼ぶほど、イギリスでくる病が多く発生していました。

 

フランスでの所得税は、同じ家に住む家族単位で課税(foyer fiscal)されます。単身独身者の場合と、子供のいない夫婦は家族係数(quotient familial)がてきようされませんが、子供が複数いる家族には、、税金が控除されます。

2021年の所得に対する税金は、世帯収入が1225ユーロ(約143万円)以下であれば、所得税は徴収されません。1226ユーロから26070ユーロ(約365万円)であれば11%の課税、26071ユ-ロから74545ユーロ(約1436万円)であれば30%74546ユーロから16336ユーロ(約14887万円)であれば41%、そして16336ユーロ以上の所得に対しては、45%課税されますが、家族の形態によって課税金額が異なります。

 

フランスでは、2001年にオンラインでの所得税の申告を開始しました。2015年からは、給与所得以外の収入のない納税者のオンライン申告が奨励され、2016年所得が15000ユーロ(約210万円)以上の世帯は、2018年以降オンライン申告に移行し、202111日から源泉徴収が導入されたのに伴って、ほとんどの納税者がオンラインで申告することになっています。

オンライン申告が一般化することで、税務署が閉鎖しています。ウエスト・フランス(Ouest-France)紙によると、1626ヵ所にある税務署(centres des Finances publiques)・財務局(trésoreries)のうち、989ヵ所が2022年以降閉鎖されます。

 

* 1=140

 

参考文献:

Service-public: https://www.service-public.fr/

Impôt sur les portes et fenêtres, Wikipédia, https://fr.wikipedia.org/wiki/Imp%C3%B4t_sur_les_portes_et_fen%C3%AAtres

INFO OUEST-FRANCE. Un centre des impôts sur deux menacé de fermeture, d’ici à 2022, Ouest-France, 16 juin 2019, https://www.ouest-france.fr/economie/info-ouest-france-un-centre-des-impots-sur-deux-menace-de-fermeture-d-ici-2022-6400302

パリには、貴族や政府の要人が居住していた邸宅(Hôtels Particuliers)が約2000件あると言われていますが、現在でも400件弱の邸宅が残っていてます。そのまま個人が住居として所有している邸宅もありますが、省庁のオフィスや図書館、美術館、または各国の大使公邸などに使用されているものもあります。

 

ボアルネ邸(Hôtel de Beauharnais)は、ナポレオン(Napoléon Bonaparte)の最初の妻ジョゼフィーヌ(Joséphine de Beauharnais)が、最初の夫(Alexandre de Beauharnais)との間に生まれた息子のウジェーヌ(Etgène)と娘(Hortense de Beaurnais)のために、18世紀に建築されたHôtel de Seignelayとその隣のHôtel du Maineを買い取り、ナポレオンの後継者にふさわしいように仕立てられた邸宅です。

ウジェーヌは、1805年にイタリア王国の副王(Vice-roi)になったため、ローマに滞在し、パリにはほとんど帰ることがありませんでした。1806年にはナポレオンの希望により、ウジェーヌはバイエルン王女オギュスタ=アメリー(Auguste-Amélie)と結婚し、結婚披露宴を邸宅で行う予定にしていましたが、最終的に結婚式はミュンヘンで行われました。その後ナポレオンは、改装に罹った費用が莫大であることを知って怒り狂い、ウジェーヌ夫妻がこの邸宅に滞在することを禁止しました。その代わり、ウジェーヌ夫妻のパリ滞在用に、チュイルリー宮(Palais des Tuileries)のフローラ棟(Pavillon de Flore)が改装されました。

ナポレオンは、この邸宅を「公邸(Résidence officielle)」としてゲストを招いていました。ジョゼフィーヌと離婚し、181042日に神聖ローマ皇帝フランツ2世の娘マリア・ルイーザ(Marie-Louise d’Autriche)と再婚した際には、ここでセレモニーが執り行われました。

1812年にナポレオン軍がロシア遠征(Campagne de Russie)から退却すると、ウジェーヌやジョゼフィーヌが度々邸宅に滞在するようになりました。しかし1814年、ウジェーヌはイタリアの副王の地位を放棄することになり、自身が住むために急いで回収を勧めようとしましたが、ウィーン会議(Congrès de Vienne)後、プロイセン(Prusse)国王フリードリヒ3世(Frédéric-Guillaume III)に接収され、交渉の末、181826日、57万フランでプロイセン王に売却されました。ボアルネ邸には、ドイツからひっきりなしに来客が訪れました。作曲家のリヒャルト・ワーグナー(Richard Wagner)も、プルタレス伯爵(Comte de Pourtalès)によりボアルネ邸に招かれ、感謝の気持ちを込めて、伯爵夫人に捧げた「黒鳥館への到着(Arrivée parmi les cygnes noirs : Ankunft bei den schwarzen Schwänen)」を作曲しました。ボアルネ邸はパリの上流階級の社交場となり、豪華な舞踏会が夜な夜な開催されました。

1862年、ボアルネ邸は正式にプロイセンの大使館になり、ビスマルク(Otto von Bismarck)が5月から9月までの短い期間大使を務めました。彼は妻宛に、「我々は森や田舎のどこにでもいることができるだろう。すべてが北を向いており、寒くて湿気があり、汚水臭いし、籠った嫌な臭いがする。」と手紙にしたためています。

18676月、ナポレオン3世(Napoléon III)は、ヴィルヘルム1世(Guillaume Ier)とその息子のフリードリヒ(Frédéric)をパリの国際博覧会(Exposition universelle)に招待し、盛大なダンスパーティー(Bal)が開かれました。フランスとプロイセンとの友好はこの時までで、1870年には普仏戦争(Guerre franco-allemande)が勃発し、フランスが負けると、ボアルネ邸はドイツ帝国(Empire allemande)の大使館となりました。

1944年、ドイツの敗戦が確定すると、大使館はフランス外務省に接収され、1951年には「歴史的建造物(Monument historique)」に指定されました。1961年に仏独協力条約(Traité d’amitié franco-allemand)が締結されると、ドゴール大統領(Président De Gaulle)は、ボアルネ邸を大使公邸として使用するようドイツに返還しました。こうして現在でも、在仏ドイツ大使公館として、フランスとドイツの友好のために、様々なイベントが行われています。

 

 

参考文献:Jörg Ebeling et Ulrich Leben, L’Hôtel de Beauharnais : Résidence de l’ambassadeur d’Allemagne, Centre allemand d’histoire de l’art, 2010.

 

ナポレオンの死は、2007年、スイス・アメリカ・カナダのグループが、「ヒ素(arsenic)による毒殺ではなく、胃がんによるものである」と断言しました。そして、胃がんは遺伝的特性(atavisme)ではなく、微生物(micro-organisme)による慢性的な炎症であることを確認しましたが、アイルランド人医師のオメアラ(O’Meara)は1823年、死因は毒殺だとほのめかしています。

ナポレオンの忠実な従僕だったマルシャン(Marchand)は回想録(Mémoires)の中で、ナポレオンの症状について記述していますが、それはヒ素を段階的に盛っていった時の症状と全く同じだと、ナポレオンの治療に携わったオメアラ、ストコエ(Stokoë)、アントマルチAntommarchi)、そしてアーノット(Arnott)が記述しています。

ナポレオンは光を嫌がり、難聴になり、咳をし、片頭痛(migraines)に悩まされるようになりました。そして、体の末端が冷えを訴え、歯が抜け、皮膚に赤斑(rougueurs cutanées)ができ、便秘に続く下痢(diarrhëes)の症状がありました。マルシャンと総督のロウ(Lowe)は事態を理解していましたが、マルシャンは黙秘を貫くしかありませんでした。

ナポレオンの髪の毛からは、通常の6倍のヒ素が検出されましたが、ロングウッドで生活していた他の人々の髪の毛からはヒ素は検出されませんでした。

ナポレオンを毒殺したのは誰か。これはモントロン(Montholon)だとされています。モントロンの妻アルビン(Albine)は、セント・ヘレナ島で1817年からナポレオンの愛人でした。アルビンは夫の許可を得て愛人になりましたが、1818年には娘が生まれ、ジョゼフィーヌ(Joséphine)と名付けられました。モントロンは嫉妬から、ナポレオンを恨んでいました。妻と一緒にフランスに帰国するには、ナポレオンが重病でイギリスでの治療が必要だと訴えればいいと考えました。しかしその願いは聞き入れられず、ナポレオンに盛る毒の量を多くして毒殺するしかありませんでした。そんな中、アルビンは18197月、子供たちの教育を理由に夫を置いてフランスに帰国してしまいました。

モントロンはますますナポレオンが憎くてたまりませんでしたが、それとは裏腹に、ナポレオンは良心の呵責(remords)から、自分の財産の3分の2をモントロンに残すと遺言書を書き直しました。

182155日にナポレオンが亡くなると、ナポレオンの嘔吐物に含まれているものが調べられました。解剖は6人のイギリス人医師の立会いの下、アントマルチが担当しました。結果、体毛(pilosité)がなくなっていたことと、肝臓(goie)の拡張(dilatation)から、「胃がんではない」と全員の意見が一致しました。モントロンは、死因を「胃がん」にするよう説得しました。ローも同じ意見でした。こうして182157日、真実を隠した報告書が作成されたのです。

 

 

参考文献: « Napoléon peut-être empoissoné à Sainte-Hélène», Dans les coulisses de l’Hisoire de France, Histoire, Hors-série, Point de Vue, pp.40-43.

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