フレンチ・パラドックス

décembre 2020

パリの中心、レ・アール(Les Halles)地区に革命直後まで「cimetière des Innocents(無実の人々の墓)」と呼ばれる墓地がありました。現在はジョアシム・ドュ・ベレー広場(Place Joachim du Bellay)に「無実の人々の泉(Fontaine des Innocents)」があるのみで、当時の面影は何も残っていません。

中世は幼児の死亡率が高く、平均寿命が25歳くらいだったこともあり、死はタブーではありませんでした。墓地には蚤の市や簡易劇場が開かれ、夜になると恋人同士が集まりました。しかし、墓地内での犯罪は取り締まることができなかったので、スリ、強盗、売春婦などの犯罪の温床地にもなっていました。

この墓地には、「La recluse(隔離部屋)」と呼ばれる小さな小屋が2つありました。広さはどうにか横たわることができるほどで、1m2しかありませんでした。一旦この中に入ると、シムまで出られず、結果個の場所が自分の墓場になりました。主に売春婦や聖職者と内縁関係を持っていた女性が、懺悔(pénitence)や信仰(dévotion)により自主的に中に入りました。中に入ると、小さな隙間を残してどんどん建物が塞がれました。隙間の一方は礼拝に参加できるよう教会に向かい合っていて、もう一方の隙間は広場の方を向いていました。中に閉じ込められた女性の使命は人々のために「祈る」ことでした。人々は、祈りで住民を保護してもらっていることのお返しに、飲み物と食べ物を恵んでもらっていました。

隔離部屋の女性の中で最も有名なのは、アリックス・ラ・ブルゴット(Alix la Bourgotte)で、1466年に亡くなるまでの46年間を小屋の中で過ごしたそうです。

この隔離小屋で余生を過ごす儀式は、16世紀に廃止されました。

 

 

参考文献Le Paris du Moyen-Âge, Laissez-vous guider, France 2, https://www.france.tv/france-2/laissez-vous-guider/2154973-le-paris-du-moyen-age.html

Les recluses du cimetière des Innocents, Sous les pavés, https://www.sous-les-paves.com/recluses-cimetiere-innocents/

 

「フランスの最も美しい村」の誕生は偶然から生まれました。1981年の夏にリーダーズ・ダイジェスト・セレクション(Sélection de Reader’s Digest)が最も美しい村の写真本を出版することになり、コレーズ(Corrèze)県のコロンジュ・ラ・ルージュ(Collonges-la-Rouge)村のシャルル・セイラック(Charles Ceyrac)村長が、由緒ある遺産を少ない予算で保護し観光を促進するために、同じ意思を持つ尊重と経験を共有できる場を作ることを提唱しました。この提唱に66の村長が賛同し、「フランスの最も美しい村」協会が1982年3月6日に誕生することになりました。 「フランスの最も美しい村」に選定されるには、厳しい条件を満たしていなくてはなりません。1991年から「候補村(villages candidats)」を審査し、1997年からは既に認定されている村を30項目で評価し選考基準を明らかにしました。 最初のふるいは3項目で、①村の規模(人口2000人以下)、②文化遺産(最低2ヵ所保護すべき建造物または景観地があること)、③村議会で承認され協会への加盟の意思があることが必要です。残りの27項目は、村の価値を評価するもので、遺産の価値、建築物の美観、都市計画の有無、周辺の環境、文化遺産の価値を高めるための努力などが審査されます。審査には6か月から1年かかります。1年に10件ほどの応募がありますが、2割くらいしか審査に通りません。 審査に際してはまず、専門家による鑑定のための費用1200ユーロを納めなくてはなりません。審査に通った村は、「品質憲章(Charte Qualité)」に署名し、それを遵守することを誓います。そして、「フランスの最も美しい村」のマークを使用することができるようになります。しかし、「フランスで最も美しい村」のラベルを使用するためには、協会に1200ユーロから4800ユーロ払う必要があります(人口300人までは1200ユーロで、それ以上の場合は人口一人当たり2,50ユーロ)。また、ラベルの品質が保たれているか確認するために、 6年から9年後に再審査があります。 2017年3月には、協会発足35周年が祝われました。この年には22の村が審査または再審査を受け、2つの村が新たに加盟し、総加盟村数は157になりました。 参考文献:Les plus beaux villages de France, Guide officiel de l’association, Sélection de Reader’s Digest, mars 2005
Les plus beaux villages de France : https://www.les-plus-beaux-villages-de-france.org/fr/le-label/comment-devient-on-lun-des-plus-beaux-villages-de-france/les-criteres/
Les plus beaux villages de France : https://www.les-plus-beaux-villages-de-france.org/fr/le-label/comment-devient-on-lun-des-plus-beaux-villages-de-france/le-processus-de-selection-des-villages/ L’année 2017 de l’association Les Plus Beaux Villages de France : https://www.camon09.org/userfile/documents/bilan_2017_Les_Plus_Beaux_Villages_de_France.pdf

フランス人の大多数がカトリック教徒ですが、一昔前までは豪華な食事で祝うのはイースター(Pâques)で、クリスマス(Noël)は盛大に祝う日ではありませんでした。クリスマスイブ(Le réveillon de Noël)の真夜中のミサに行く前に、ワインを飲みながら焼き栗、クレープまたはドーナッツ(beignets)を食べました。
クリスマスイブの食事は、肉食が許されない日(jour maigre)から肉食が許される日(jour gras)になる夜中の食事のことです。この期間は四旬節(カレム:Carême)のため、肉を食べることは許されませんでした。南仏ではタラ(morue)や焼き魚、たくさんの種類の野菜が食べられました。テーブルには三位一体(la Sainte-Trinité)を象徴する3枚のテーブルクロスが掛けられ、3本のろうそくが飾られました。「プロバンス地方の盛大な夕食(gros souper provençal)」は、キリストと12人の使徒(12 apôtres)を象徴する13種類のデザートで締めくくられました。こうした食事のスタイルは、19世紀に民間伝承研究家(folkloristes)が昔の習慣と再現したことで大流行し、現在でも受け継がれています。 真夜中のミサから戻るとカレㇺが終了しているので、肉を食べることができます。ソーセージやカモの肉が振舞われました。 七面鳥(dinde)は19世紀頃にプロバンス地方でクリスマスの食事として登場しました。七面鳥は18世紀頃から食卓に上がるようになりましたが、王侯貴族など一部の人々にしか縁がありませんでした。また、七面鳥は大きいので、普通のサイズのオーブンで焼くことができず、大きな釜のあるパン屋(boulanger)で焼いてもらわなければなりませんでした。現在では、少人数の家庭でも食べられる小ぶりの七面鳥が飼育されていて、栗を詰め込んだ七面鳥のローストは、クリスマスに欠かせない料理になっています。

参考文献: Marie-France Noël / Christian Le Corre, Noël Histoire et traditions, « La table de Noël », Editions Ouest-France, 2008, pp.109-115

クリスマスツリーは、クリスマスのシンボルです。フランス中の市町村でも12月になると大きなクリスマスツリーが広場に設置されます。クリスマスツリーの「発祥地」と言われるアルザス(Alsace)地方のストラスブルグ(Strasbourg)では、クレベール広場(Place Kléber)に高さ30メートルのツリーが色とりどりに飾られます。 アルザス地方に最初にクリスマスツリーが飾られたのは1521年ですが、それ以前にドイツ(Allemagne)やオーストリア(Autriche)ではクリスマスツリーが飾りつけをされていたようです。クリスマスツリーがパリで飾られるようになったのはずっと後の1837年で、オルレアン侯爵(Duc d’Orléans)と結婚したエレン・ド・メクレンブール(Hélène de Mecklembourg)がドイツの習慣を持ち込んだからです。1841年にはドイツ出身のアルバート(Albert)王子がイギリス(Angleterre)のビクトリア女王(La Reine Victoria)と結婚し、ウインザー城(Château de Winsor)にクリスマスツリーが設置されました。これを機に、ヨーロッパの上流階級の家庭でクリスマスツリーが飾られるようになり、次第に庶民も真似をするようになりました。 クリスマスツリーには、天国(Paradis)の象徴である赤いリンゴ(Pommes rouges)や金色に塗られたクルミ(Noix dorées)、バラの花や色とりどりの紙、ホスチア(Hostie)や蝋燭が飾られました。ビクトリア朝時代は、ツリーは白いダマスク織りのテーブルクロスが敷かれたテーブルの上に置かれ、紙で作った花飾りなどで飾られました。赤いリンゴは19世紀には球形のガラス玉になりました。これは、1858年の干ばつの影響でモーゼル(Moselle)地方でリンゴが収穫できませんでした。そこで、リンゴの形のガラスが作られたのです。 蝋燭(bougies)は火事の原因になることが多く、20世紀になると電気の電飾に代わりました。最初の電気のイルミネーションはトーマス・エジソン(Thomas Edison)の立会いの下、1882年ニューヨークに登場しました。それ以降、イルミネーションはクリスマスに必要不可欠なものになりました。 蝋燭は現在でもアドベント(Avent)で灯されます。クリスマスリース(Couronne de l’Avent)に4本のろうそくを立て、クリスマスから4週間の日曜日に最初の1本が灯されます。2回目の日曜日には2本、3回目には3本、そしてクリスマス前の4回目の日曜日は4本すべてが灯されます。 参考文献: Marie-France Noël / Christian Le Corre, Noël Histoire et traditions, Ouset-France, octobre 2008, pp.21, 63-72 Noël en Alsace, Collection Guides Découvertes, I.D.L’EDITION, 2008, pp.24, 28-29 « Pas de réveillon pour Louis XVI », Historia, janvier 2011, N°769, pp.28-33

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