フレンチ・パラドックス

juillet 2020

不法就労者が増えることは社会にとって好ましいことではなりません。労働省・厚生省が刊行しているRevue Française des Affaires Sociales1974,“L’intégration des travailleurs migrants dans la société des pays d’accueil”op.cit;p.204)によると、職業教育や資格を持たない労働者階級を形成、労働に見合った賃金が支払われない、非合法労働者とその家族は子供の教育が疎かになり、学業不振児の温床になることが多い、社会保障が適用されない、フランス社会への統合が困難になる、⑥不法移民の増加は、合法移民に対する偏見を生み、合法移民にとって労働条件、社会環境上不利になる。また非合法移民の雇用は、合法移民の雇用や労働条件の改善を妨げる要因となります。

外国人労働者のもう1つの問題は、失業問題です。

フランスでは1980年以降外国人の失業率が増加しました。19733年には外国人の失業は全失業数の8,6%にすぎなかったのが、1983年には12,4%1984年と1985年には11,9%に上昇し、1989年には12,5%になりました。

製造業(特に自動車産業)は人件費の安い外国人労働者を大量に雇い、労働集約的に生産活動を続けることで資本投資を押さえていた訳ですが、1980年代になると、最新技術を導入し合理化を図った資本集約的な日米企業の猛烈な攻勢に合い、移民労働者に頼った生産から、機械化、ロボット化、合理化による生産性の向上へと方向転換を迫られるようになりました。それにより、余剰になった外国人労働者が大量に整理されたのです。また、経済成長が停滞している一方で、女性の目覚ましい社会進出と機械化、合理化が進んだためでもあります。1960年には276万人(失業率1,4%)であった失業者が、1993年には遂に300万人を超え(失業率10,9%)、その不安と怒りは外国人に向けられ、極右政党の国民戦線(Front national:現在は国民連合(Rassemblement national))は、「1 million de chômeurs, c'est 1 million d'immigrés de trop ! La France et les Français d’abord ! 100万人の失業者、それは100万人の移民。多すぎるフランスとフランス人が先)」と叫びました。

移民の「質」が向上するにつれ、「移民=単純労働者」というイメージが変化していきました。移民の受け入れ停止以降も、1990年には、22393人の外国人が労働許可を取得しましたが、そのうちの34%が職人または専門職人、35%が有資格者(歯科医、建築家、会計士、大学教授など)で、31%がエンジニア・管理職でした。

INSEEの調査では、1982年に管理職に就いていた外国人は7万人であったのが、1992年には192000人に増加しています。外国人労働者はフランス全人口の6,5%でしたが、CNRSCentre national de la recherche scientifique:フランス国立科学研究センター)の研究 員の8%、中学校の教員の12%、パリ地方の病院の医師の17%を占めるほどになりました。

移民は人口、経済、文化に関する出資者となり、企業主になっている者も少なくありません。外国人のトップがいる企業は、1982年には6万社、1989年には9万社を越えました。パリの個人企業の60%は外国人の経営です。こうした「新しい移民」は、雇われる側ではなく雇う側であり、むしろフランス人を使い、高収入を得て高級住宅地に住んでいたりします。1980年代半ば以降の好景気を背景に、欧州統合で市場が閉鎖的になる前に何としてでもEC市場に参入を果たしておきたいアメリカやスウェーデン、日本の企業が相次いで進出し、それがさらに呼び水になって、ビジネスマンの家族を対象にした学校や塾から、食料品店、美容院、新聞・雑誌・書籍・ビデオの販売、不動産に至るまであらゆる形態の雇用が創出され、こうした従来と違うタイプの移民をつくり出していきました。

しかし、外国人の雇用は必ずしも経済に貢献するばかりではありません。むしろマイナスの効果をもたらしていることもあります。その1つが不法就労です。

不法就労とは滞在許可証の不所持、または滞在許可証あるいはビザを取得しているのにもかかわらず有効期限を超えても滞在し、就労していることを指します。滞在許可証があると労働許可証を取得しやすくなるので、滞在許可証の偽造が行われたり、非合法の労働者の入国を斡旋する組織も存在します。また、労働許可を持たない外国人を雇用する市場も形成されています。こういった裏の市場では脱税、社会保障の分担金逃れが行われ、労働者を低賃金で雇います。

家族呼び寄せには2つの側面がありました。一つは、外国人労働者がフランス人とのプライベートな付き合いもなく、家に帰っても家族がいなければ社会から見放されているような気持ちになり、社会になかなか溶け込めないため、家族を呼び寄せて一緒に暮らすこと ができるようにしようという人道的配慮であり 、もうひとつは、新たに入国する移民労働者を制限し、既に滞在している移民労働者を定着させ、移民人口を安定かさせようという政策的な目的でした。

外国人の家族呼び寄せ政策での「成果」は、フランスの人口カーブが上昇に転じたことです。

北アフリカ出身の女性は多産の傾向で、1968年の平均出生率は、フランス人1人当たり2,5人であったのに対し、アルジェリア人8,92人でした(外国人の平均は4,01人:ポルトガル人4,90、イタリア・モロッコ人3,32、スペイン人3,20)。1992年になると出生率はぐんと下がり、フランス人1,70人に対し、外国人は2,80人(チュニジア人3,9、トルコ人3,7、モロッコ人3,7、アルジェリア人3,2、ポルトガル人1,9、スペイン人1,5、イタリア人1,4)でした。EC諸国出身者はフランスと同じかそれより低い数字なのに対して、北アフリカ系外国人、出生率が低くなってはいるものの、フランスと比べると2倍強でした。1978年から1982 年の間に、5人目の子供をもうけた外国人女性は46,4%57,2%に増加し、全新生児の13%を占めるようになりましたが、1982年にフランスで生まれた子供の52%の親が北アフリカ出身であったのに対し、1990年には47%に減少しました。

統合高等審議会は、外国人の出産率が下がり、フランス人の出産率に近づきつつあるということは、それらの外国人がフランスに統合していることを表していると解釈しています。つまり、移民の生活がフランス人の生活に近づき、生活水準が向上するにつれ、快適な生活を望むようになる。その結果、子供の数が減少してきたのです。

フランスは出生率が低く、労働人口が不足していたため、外国人労働者を受け入れざるのが最も手っ取り早いと考えられていました。

労働省・厚生省(Le Ministère des Affaires sociales et de la Santé)発行の Revue Française des Affaires SocialesJanvier-Mars 1974, p.189-190)は、「過去に例を見ない経済成長、最新技術を投入し、生産様式の合理化を進めるする代わりに、従来の技術で低い賃金の移民労働者を大量に使うことによって、資本投資を押さえることができる。特に50年代は移民の賃金水準は低く、移民を使うことでコストを大幅に削減することができた、大量の移民を産業に導入することで、産業が急速に発展し、それによってさらに労働者が必要になる。そして、産業の発展が地方間の発展格差を縮小する役割をはたす、フランス人の就きたがらない職種、職業ができてくることで、移民労働者を導入する必要があった」、と記しています。つまり、移民労働力の利用は雇用主にとって都合が良かったということです。

フランスの経済成長は外国人労働者によってもたらされたと言っても過言ではなく、フランスの農業は1950年代に機械化されるまでは外国人労働者に支えられていたし、イタリア人やポーランド人がいなければフランスの鉄鋼業や鉱業はとっくに破綻していたし、アルジェリア人やアフリカ人の労働力がなければ自動車産業は奇跡的な発展を遂げることができなかったでしょう。若者や失業者でも嫌がる中央市場やロレーヌ地方の炭坑での重労働は、移民労働者に支えられていたわけです

こうした外国人労働者は、多くが住宅建、高速道路建設、自動車製造分に携わっていました(Revue d’économie politique1978 “Les travailleurs étrangers en France ” op.cit.,p.989)。

ONIと労働省の統計によると 、第1次産業は1970年には11,2%だったのが、1975年には5,3%1976年には4,7%、そして1977年には2,8%に減少し、わずか7年間で第1次産業の移民労働人口は5分の1に縮小しました。建設・公共事業も1970年には34,3%を占めていたのが、翌1971年には29,9%1975年には14.3%1977年には11,6%にまで減少し、約3分の1なりました。労働人口を吸収したのが第3産業です。商業を例にとると、1970には6,7%であったのが、1971年には8,8%、そして1975年には24,0%1977には24,2%に上昇しました。その他の第3次産業についても、1970年にはわずか3,2%であったのが、1975年には18,0%1977年には19,3%6倍以上になりました。

こうした第1次産業から第2次産業、あるいは第3次産業への労働人口の移行は、ラジオ、テレビ、洗濯機などの耐久消費財の普及によって消費が拡大したこと、教育水準の上昇によって、R&D、メデイアなどの知識産業が発達したこと、生活水準の向上とモータリゼーションの進展によって、郊外の開発、住宅供給と、それに伴う大型店舗の建設、レジャー産業が発展したためです 。高度サービス部門、高度技術産業の成長と共に、所得水準の高い専門的、技術的職種が拡大し、その一方で、そういうトップ・レベルの専門労働者の生活様式に対してサービスを提供するような職種ができて、成長を遂げている高度技術産業であっても、一部は人手を必要とする単純労働なので、そういった部門が移民を多く引き寄せました。

フランスでは、第二次大戦後の1949年から1970年代前半まで工業生産が著しい発展を遂げました。特に1968年第3四半期から1972年第1四半期、1972年第3四半期から1973年第1四半期は、平均6%の成長率を記録しました 。それに伴い労働需要も増加し、1972年には35万人の雇用が創り出され、外国人もANPE(国立雇用事務所 : Agence nationale pour l’emploi)を通さなくとも、新聞の求人欄等を通して簡単に職を得ることができました。

この時期は、積極的に移民が受け入れられました。フランスの経済復興に伴い、1955年頃からアルジェリアからフランスへ人が流れ出し、アルジェリア独立戦争が終結した1962年以降は、招集兵や本国送還者の大量の帰国で、国内労働人口が一挙に膨れ上がりました。1962年から1965年の間に、移民人口は718000人(本国送還者324000人、ONIが認定する移民283000人、アルジェリア人111000人)に膨れ上がりました。フランスはそれでも慢性的な労働力不足に悩み、第1次計画では、5年間に150万人の外国人労働者を受け入れる必要があるとされていました。そのためにまずスペインから、そしてポルトガル、マグレブ(アルジェリア、モロッコ、チュニジア)、アフリカ、アンチーユから移民を受け入れました。1963年にはモロッコとチュニジア、1965年にはユーゴスラビアとトルコとそれぞれ協定を締結し、フランスの企業は盛んにポルトガルやアルジェリアの村に労働者の勧誘しに行きました。この時期は労働者不足を恐れて、不法移民も大目に見られていました。アフリカ大陸での植民地戦争に駆り出された大勢の若いポ ルトガル人脱走兵がフランスへ不法入国しても、フランス国境・航空警備隊は目をつぶっていました。これが契機になって、1965年から1975年にかけて大量のポルトガル移民が流入し、戦後2万人足らずだったポルトガル人は1975年には76万人になりました。こうして1960年代の前半までは年10万人、1971年は177400人、1972年は119700人、1973年は153400人の移民を受け入れることになりました。)

1960年代以降は他の植民地の独立が相次ぎ、197319日の法律73-42号(Loi n° 73-42 du du 9 janvier 1973 complétant et modifiant le code de la nationalité française et relative à certaines dispositions concernant la nationalité française)は、独立前にフランス国籍を取得した者は、旧植民地の国籍を選択しない場合に限り、そのままフランス国籍を維持することができる(第155-1条)としたため、フランス国籍を選択した者がフランスに移住してくるようになりました。

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