フレンチ・パラドックス

mai 2019

日本では、血統書つきの犬であろうと雑種であろうと、飼い主が犬に自分の好きな名前を付けることができます。チョコ、ショコラ、マロン、ココアなど、スィート系の名前が多いようですが、フランスでは自由に名前を付けられません。血統書(Livre des origins Officielles)付の犬の名前の付け方には規則があります。例えば、2015年に生まれた子犬には、Lから始める名前を付けなければなりません。

この規則は、犬の家系図を管理するSociété centrale (現在のSociété Centrale Canine)1926年に始めました。最初の年はAから始まる名前、2年目の1927年はBから始まる名前というように血統書つきの犬がいつ生まれたかすぐにわかるようにしたわけです。

このシステムは犬の家系図の管理の担い手がUnion Nationale des Livres Généalogiquesになったのに伴い、1972年に見直しが行われました。1973年にIから始まる名前で再スタートしましたが、KQWXYから始まる名前は探すのが難しいという理由で省かれることになりました。このため、犬の名前のアルファベットは、20年で一巡することになります。

 

それでは、具体的にどういう名前が付けられるのでしょうか。アルファベット別に名前を紹介してくれるインターネットサイトが参考になります。例えば、Musherというサイトでは、301の名前を紹介しています。2019年はPから始まる名前なので、Paco( パコ)、Pogo(ポゴ)、 Piccolo(ピッコロ)、 Pancake(パンケーキ)、 Panda(パンダ)などががリストされています。

 

こうした規則は血統書つきの犬にのみ適用されるので、それ以外の犬にはどんな名前を付けようと問題ありません。また、血統書つきの犬であっても、登録名と「通名」を分けて使うこともできます。実際、オランド大統領は、Jから始まる名前を付けるべきところ、彗星に着陸した小型探索機「フィラエ」にあやかって、「Philae」と名付けています。



参考 : 
https://www.musher-experience.com/nom-de-chien-en-p-pour-2019-plus-de-301-prenoms-de-chien/

フランス国王一家は、革命から3ヵ月後の1789106日、パリからやってきた市民達にパリに連れて行かれ、チュイルリー宮に幽閉されます。179193日、憲法が国民議会で採択されると、フランス国王は、「フランス国民を代表する王」でしかなくなり、権限も、大臣の任命、外交、国民議会の採択した憲法を施行させること、に限定されてしまいました。ルイ16世は新憲法に署名するのを拒み、国外に逃亡しようと試みました。

国王一家の逃亡は、ブイエ侯爵(marquis de Bouillé)とスェーデン人のフェルセン伯爵(conte de Fersen)の綿密な計画の元に実行されました。何も問題が起こらなければ、オランダ・オーストリア国の領土に抜けることができたのですが、国境近くのヴァレンヌ(Varennes)の町で国王一家の逃亡が見破られ、計画は失敗しました。

失敗の原因は、ルイ16世がポン・ド・ソム・ヴェル(Pont-de-Somme-Vesle)でショワズール公爵(duc de Choiseul)と軽騎兵に合う予定が大幅に遅れたからです。

ルイ16世は大変な大食漢で、豪華な大型馬車に、牛肉のジュレ、鶏や子牛の肉、シャンペンなどを積み込み、道中指でつまんで食べていました。エトージュ(Étoges)では、元使用人の家で子牛の頭(tête de veau)を堪能しました。食欲を満たすために、ルイ16世は安全対策をまるっきり無視してしまったのです。

ショモン(Chaumont)では堂々と窓側に座り、シェントリクス(Chaintrix)では、馬を換える代わりに食事をしました。さらに、竜騎兵が介入する代わりに、ブイエ公爵の息子と共に夕食をしたことが命取りになったとされています。

ルイ16世の大食漢ぶりは、1770年に行われたマリー・アントワネットとの結婚式の時にルイ15世に「息もせずにがつがつ食べる(se bâfrer à en perdre le souffre)」と指摘されていました。ルイ15世は、「今夜は胃に食べ物を詰め込ませすぎないように(Ne vous chargez pas trop l’estomac pour cette nuit)」と忠告しましたが、ルイ16世は怪訝そうに、「なぜなの?僕はたくさん食べた方がよく眠れるんだよ(Pourquoi donc? Je dors beaucoup mieux lorsque j’ai bien mangé)」と答えました。

ルイ16世紀の食欲のせいで、フランスの運命が大きく変わってしまったと言っても過言ではないかもしれません。

 

 

参考文献

Jean VITAUX, Les petis plats de l’histoire, PUF, décembre 2011, pp.9-11.

「余の辞書に不可能の文字はない」という格言は、ナポレオンの名言として有名です。フランス語では、「Impossible n’est pas français(不可能という単語はフランス語ではない)」なので、オリジナルと日本語とでは、ニュアンスが異なります。

なぜナポレオンが「不可能はあり得ない」と言ったのでしょうか。

ナポレオンは、1808年、弟のジョゼフをスペイン王の座に就かせるため、軍を率いてマドリッドに向かっていました。北からマドリッドに入るには、グアダラマ山脈(Sierra de Guadarrama)にあるソモシエーラ(Somosierra)を通らなくてはなりませんでした。峠には厚い霧が立ち込め、ナポレオン軍の歩兵は、スペインの砲中隊と狙撃兵に行く手を阻まれました。ナポレオンは、強行突破するために、帝国衛兵隊の軽騎兵を送りこむよう指示を出しました。ところが、中尉は、「不可能です」と答えました。それを聞いたナポレオンは、「何だって?不可能?そんな言葉は聞いたことがない!わが帝国衛兵隊に不可能などあり得ない!」と怒りを爆発させました。こうして、ソモシエーラノの町は、ナポレオン軍の手に落ちたのです。

 

この言葉は、兵士の間で好んで使われるようになり、次第に宮廷でも大流行しました。

ロシアのアレクサンドル1世がフランスからの亡命者を追放しようとした時、フランスの警察大臣(Ministre de la Poloce)のフーシェ(Fouché)は、アレクサンドル1世を説得するのは「不可能」だと判断しました。ところがナポレオンは、ソモシエーラの時と同じことを言ったのです。フーシェは、「閣下が『不可能という言葉はフランス語ではない』と教えて下さったことを思い出すべきでした」と答えました。

また、181379日、マクデブルク(Magdebourg)市の司令官ルマロワ(Lemarois)は書簡で、包囲から町を守ることが不可能だと伝えると、ナポレオンは、「不可能だと書かれているが、不可能という言葉はフランス語ではない」、と返事を送りました。

 

ナポレオンは、無力さを認めてしまうことを嫌いました。ナポレオンは、コート・ドール(Côte-d’Or)県知事のマチュー・モレ(Mathieu Molé)に、無力さを認めてしまうことは、「le fantôme des humbles et le refuge des poltrons(愚民の妄想で臆病者の逃げ場でしかない」」と述べたのです。

 

 

参考文献

« Les Citations célèbres de César à Mitterrand, ce qu’ils ont vraiment dit », Historia, Spécial, n°9, janvier-février 2013, pp.46-47.

 

ブリオッシュは、フランスで人気のパンですが、ヴィエノワズリー(viennoiserie)、つまり、「菓子パン」にカテゴライズされています。パンと違うところは、材料に卵、バター、牛乳、砂糖などを使い、生地を膨張させたり折り込んだりしていることです。なので、パンというよりはお菓子に近く、フランスではよく朝食にヴィエノワズリー(クロワッサンやレーズンパンなど)が供されます。

ブリオッシュはヴィエノワズリーの中でも、生地を膨張させ、空気をたくさん含んだ、バターと卵のたっぷり入ったほんのり甘いパンです。

ブリオッシュは16世紀にノルマンディー地方で生まれたとされていますが、中世に既に今のブリオッシュに近い、小麦粉、パン酵母、バター、牛乳、卵を使った生地で焼いたパンがあったそうです。

かつては、美味いブリオッシュはジゾー(Gisors)、グルネー(Grenay-en-Bray)といったオート・ノルマンディー(Haute-Normandie)地方の町で作られる、と言われていました。ノルマンディー地方は酪農業が盛んで、良質なバターを沢山生産しているからです。

ブリオッシュの変形は、ノルマンディー地方から大西洋沿いに南に下ったヴォンデ(Vendée)地方でも中世から作られていました。この地方のブリオッシュはガシュ(gâche)と呼ばれ、小麦粉、卵、バター、砂糖、生クリームで生地が作られ、主にイースターなどの特別の日に食べられます。

 

ところで、ブリオッシュは、マリー・アントワネットが、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない(S’ilsn’ont pas de pain, qu’ils mangent de la brioche)」といったと言われる「お菓子」ですが、1843年にアルフォンス・カール(Alphonse Kart)がレ・ゲップ(Les Guêpes(「意地悪女」という意味))という風刺紙に「国民には食べるパンがなかった。「それならブリオッシュを食べたらいいじゃない!」とマリー・アントワネットは言ったが、国民が怒りで興奮したのを思い起こす」と記したのが最初です。しかし、この記述には何の出典もなく、根拠に乏しいとされていました。

最近になって、ヴェロニック・カンピオン=ヴァンソン(Véronique Campion-Vincebt)とクリスティン・ショジャエイ・カヴァン(Christine Shojaei Kawan)、そしてセシル・ベルリー(Cécil Berly)の2つの研究により、この台詞には根拠がないと結論付けられています。

この話は都市伝説の一種で、イギリスやドイツ、アメリカでも同様の話が伝わっているそうです。例えば、イギリスの風刺新聞パンチ(Punch19791017日号は、「Hennessy was the toast when Marie-Antoinette was eating cake(マリー・アントワネットがケーキを食べている時、ヘネシーはトーストだった)」というコニャックの宣伝を掲載しています。ケーキは権力の象徴として、国民や貧困に対して思慮を欠いていたマリー・アントワネットのイメージと結びあって、このようなセリフを語ったとされてしまったようです。

 

 

参考文献

« Les Citations célèbres de César à Mitterrand, ce qu’ils ont vraiment dit », Historia, Spécial, n°9, janvier-février 2013, pp.101-103.

Véronique Campion-Vincebt, Christine Shojaei Kawan, Annales historiques de la Révolution française, n°327, janvier-mars 2002, p.42

ジャガイモは、1537年、スペインの南アメリカ大陸遠征の際に発見されました。インカの人々は、ジャガイモを「Papa」と呼んでいましたが、スペイン人は「Patata」と呼ぶようになりました。ジャガイモはスペインに持ち込まれた後、「Taratouffli小さなトリュフ)」という名で、イタリアに伝わり、南フランスやドイツにも普及していきました。

ヨーロッパで栽培が始まったのは1540年頃だとされていますが、フランスでジャガイモの食用が始まったのは、1786年になってからです。軍所属の薬剤師で農学者でもあったアントワン・アーギュスタン・パルモンティエ(Antoine Augustin Parmentier)が、7年戦争中プロシア軍に捕えられた時、ジャガイモで生き延びられた経験から、フランスにおける食糧難を解決するために、ジャガイモ栽培の研究を始めました。しかし、ジャガイモに警戒する人が多かったため、何か秘策が必要でした。

パルモンティエはまず、耕作地に人の往来の多い場所を選びました。そして、兵士に昼夜警備をさせました。しかし実際には、夜は殆ど警備の兵士を配置しませんでした。人々は、昼夜を問わず警備されている作物なのだから、かなり高価なものに違いないと考えました。そこで、夜にジャガイモを盗まれるようになりました。パルモンティエは、ジャガイモの普及にはまだ「宣伝」が足りないと思い、当時の国王ルイ16世にボタンホールにジャガイモの花を挿してもらうよう懇願しました。ルイ16世は、宮廷で正式にジャガイモを食しました。こうして、ジャガイモは、「オレンジ・ロワイヤル(Orange royale)」と呼ばれるようになりました。パルモンティエは、40年にもわたって、当時のあらゆる媒体を使ってジャガイモの普及に努めました。書物や新聞などで積極的にジャガイモを宣伝しました。その甲斐あって、ジャガイモは貴族だけでなく、庶民も気軽に手が出せる食物になったのです。

 

ところで、ジャガイモにもいろいろな種類があります。2010年時点で、フランスでは192種類のジャガイモが登録されていますが、ヨーロッパには1294もの種類があります。

その中で、フランスで一番早く収穫されるのが、ノワールムティエール島(Ile de Noirmoutier)で栽培されるジャガイモです。シルテマ(Sirtema)という種類は、4月の初旬に収穫されます。そして、ボネット(Bonnotte)という種類は、わずか100トンしか収穫されず、販売期間は2週間に限定されています。島で収穫されるジャガイモは1万トンですから、わずか1%の収穫量です。2011-2012年のフランスのジャガイモの総生産量は730トンで、ヨーロッパでは、ドイツ(1200万トン)、ポーランド(820万トン)オランダ(730万トン)に次いで第4番目です。

 

 

 

参考文献

Jean-Paul THOREZ, La pomme de terre, Chronique du potager, Actwa Sud, octobre 2000, pp.35-36.

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