フレンチ・パラドックス

欧州医薬品庁(Agence européenne du médicament)が1221日にファイザー(Pfizer-BioNTech)製のワクチン接種の許可を出したことにより、アメリカ合衆国(1214日)、イギリス(128日)より数週間遅れて、ドイツ、オーストリア、イタリア、フランスで1227日からワクチンの接種が開始されました。

フランスでの接種は第一段階として、保健衛生上のリスクのある65歳以上の医療関係者と、65歳以上の介護老人ホーム(EhpadÉtablissement d’hébergement pour personnes âgées dépendantes)に入所している人、長期療養施設の入院患者、老人ホームの入居者から接種が行われました。でした。1月末までに100万人に接種する予定でしたが、11日時点での接種を行った人数はたったの516人でした。ドイツではすでに238909人が1回目の接種を受けていたのと比べると、あまりにも少ない数でした。

14日からは、慢性病を患っている50歳以上の医療関係者に対象者が拡大されました。

1231日にオリヴィエ・ヴェラン(Olivier Véran)連帯・保健大臣(Ministre des Solidarités et de la Santé)が約100ヵ所のワクチンセンター(centres de vaccination)を設置することを発表し、夏前までに1400万人の接種を目指して、第二段階は、118日から75歳以上の接種が開始しました。電話とインターネットでの予約受付は115日から開始しましたが、ワクチンの量が希望者に対して十分ではなかったため、予約場撮りにくい状態が続き、混乱した地方もありました。

26日からは、年齢関係なく、すべての医療関係者が接種できるようになりました。

219日からは、コロナ重症リスクのある(糖尿病、肥満など)50歳から64歳が、病院で摂取できるようになり、225日からは、かかりつけの町医者でも接種できるよういなりました。

32日からは、75歳以上がかかりつけの町医者でアストロゼネカ(AstraZeneca)を接種できるようになりました。

315日からは、複数の慢性病にかかっている(comorbidité50歳以上が、診断書なしでも薬局でアストロゼネカを接種できるようになりました。

327日からは、70歳以上であれば、モデルナ(Moderna)またはファイザー製のワクチン接種が可能となり、アストロゼネカは町医者でも薬局でも接種できるようになりました。

412日からは、55歳以上が町医者、看護婦または薬局でアストラゼネカ製バキスゼブリアR Vaxzevria)の接種が可能になりました。

51日からは、複数の慢性病に罹っている18歳から49歳に、診断書があればファイザー製またはモデルナ製のワクチンを打つことが許可されました。

510日からは、すべての50歳以上が、ワクチンセンターで、ファイザー製またはモデルナ製のワクチン接種ができるようになりました。

512日からは、複数の慢性病を患っている18歳から49歳が、ワクチンセンターで予約当日または翌日、ファイザー製またはモデルナ製のワクチンを接種できるようになりました。

531日からは、ワクチンセンターで、すべての成人に対してファイザー製またはモデルナ製のワクチン接種が可能となり、615日からは対象年齢が12歳から18歳に拡大されます。

64日、フランスでは27484767人が1回目の接種が終え、1200万9千164人が回目の接種を終えています。合計39493931人が最低1回摂取したことになります。


参考文献 : Service-public : https://www.service-public.fr/

Ministère des Solidarités et de la Santé : https://solidarites-sante.gouv.fr/



ナポレオンの死は、2007年、スイス・アメリカ・カナダのグループが、「ヒ素(arsenic)による毒殺ではなく、胃がんによるものである」と断言しました。そして、胃がんは遺伝的特性(atavisme)ではなく、微生物(micro-organisme)による慢性的な炎症であることを確認しましたが、アイルランド人医師のオメアラ(O’Meara)は1823年、死因は毒殺だとほのめかしています。

ナポレオンの忠実な従僕だったマルシャン(Marchand)は回想録(Mémoires)の中で、ナポレオンの症状について記述していますが、それはヒ素を段階的に盛っていった時の症状と全く同じだと、ナポレオンの治療に携わったオメアラ、ストコエ(Stokoë)、アントマルチAntommarchi)、そしてアーノット(Arnott)が記述しています。

ナポレオンは光を嫌がり、難聴になり、咳をし、片頭痛(migraines)に悩まされるようになりました。そして、体の末端が冷えを訴え、歯が抜け、皮膚に赤斑(rougueurs cutanées)ができ、便秘に続く下痢(diarrhëes)の症状がありました。マルシャンと総督のロウ(Lowe)は事態を理解していましたが、マルシャンは黙秘を貫くしかありませんでした。

ナポレオンの髪の毛からは、通常の6倍のヒ素が検出されましたが、ロングウッドで生活していた他の人々の髪の毛からはヒ素は検出されませんでした。

ナポレオンを毒殺したのは誰か。これはモントロン(Montholon)だとされています。モントロンの妻アルビン(Albine)は、セント・ヘレナ島で1817年からナポレオンの愛人でした。アルビンは夫の許可を得て愛人になりましたが、1818年には娘が生まれ、ジョゼフィーヌ(Joséphine)と名付けられました。モントロンは嫉妬から、ナポレオンを恨んでいました。妻と一緒にフランスに帰国するには、ナポレオンが重病でイギリスでの治療が必要だと訴えればいいと考えました。しかしその願いは聞き入れられず、ナポレオンに盛る毒の量を多くして毒殺するしかありませんでした。そんな中、アルビンは18197月、子供たちの教育を理由に夫を置いてフランスに帰国してしまいました。

モントロンはますますナポレオンが憎くてたまりませんでしたが、それとは裏腹に、ナポレオンは良心の呵責(remords)から、自分の財産の3分の2をモントロンに残すと遺言書を書き直しました。

182155日にナポレオンが亡くなると、ナポレオンの嘔吐物に含まれているものが調べられました。解剖は6人のイギリス人医師の立会いの下、アントマルチが担当しました。結果、体毛(pilosité)がなくなっていたことと、肝臓(goie)の拡張(dilatation)から、「胃がんではない」と全員の意見が一致しました。モントロンは、死因を「胃がん」にするよう説得しました。ローも同じ意見でした。こうして182157日、真実を隠した報告書が作成されたのです。

 

 

参考文献: « Napoléon peut-être empoissoné à Sainte-Hélène», Dans les coulisses de l’Hisoire de France, Histoire, Hors-série, Point de Vue, pp.40-43.

バガテル城は、ブローニュの森(Bois de Boulogne)に隣接したバガテル公園(Parc de Bagatelle)の中にあります。

バガテル城は、ルイ16世(Louis XVI)の弟で後のシャルル10世(Charles X)となるアルトワ伯爵Comte d’Artois)が義妹(belle-sɶur)のマリー・アントワネット(Marie Antoinette)と3ヵ月で居城を建設することができるか賭け、アルトワ伯爵が見事64日で完成させたという逸話で有名です。驚異的な速さ建設されたので、この城は「アルトワの狂気(La Folie d’Artois)」と呼ばれることになり、いわゆる「つまらないもの(bagatelle)」ではなく、「小さいけど使いやすい(Parva sed apta (petite mais commode))」城は、転々といろいろな人の手に渡っていきました。

17771126日に完成後、1778523日に披露パーティーが開かれ、17811118日には国王を招いて、盛大なディナーが催されました。17826月にはロシアのエカテリーナ2世(la Grande Catherine)の息子パーヴェル(Paul)を招き、庭師のブレキー(Blaikie)がマリー・アントワネットとアルトワ伯爵を伴って庭を案内しました。

しかし、饗宴は長く続きませんでした。1789714日にフランス革命(la Révolution française)が勃発し、状況が一変しました。2日後の716日、ルイ16世はアルトワ伯爵にすぐに亡命するように命じました。国会が占拠し、バガテル城は荒れ放題になりました。1793年、国民公会(Convention)は近隣のマドリッド(Madrid)城とミュエット(Muette)上の取り壊しを決定しました。バガテル城は奇跡的に取り壊しから免れました。ユベール・ロベール(Hubert Robert)とカレ(Callet)の絵は城内に置き去りにするとしても、すべての家具は国有調度品倉庫(garde-meuble)に運ばれることが決定しましたが、多くの家具は盗まれ、売り飛ばされました。バガテル城を保護するために、ヌイ(Neuilly)市は1794年、「すべての市民はバガテルの庭園を散策できるが、何も触れてはいけない。節度のある行動をし、憲法上の諸機関(autorités constituées)ではほとんど立ち止まってはいけない」と議決しました。こうした動きにかかわらず、バガテル城は1797年に売却されてしまいました。

 

 

Audrey de Montgolfier, Le roman de Bagatelle, Edition Beaufort, avril 2021.

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