フレンチ・パラドックス

フランス革命(Révolution française)後、立法府(Le pouvoir législatif)もベルサイユからパリに移転しました。国民議会(Assemblée nationale)は、1799年にブルボン宮(Palais Bourbon)に移転し、上院(Sénat : 元老院(Conseil des Anciens))は1795年にルクセンブルグ宮(Palais du Luxembourg)に居を構えました。しかし、1875年憲法により第三共和国が樹立されると、両院はベルサイユに設置されました。1879年に国民議会が再びブルボン宮に戻るまで、ベルサイユは再び立法府の中心になりました。

第5共和国になると、憲法改正が必要になるような重要な立法には、上下両院合同会議(Congrès)がベルサイユの議場で行われることになりました。1958年10月4日憲法(La Constitution du 4 octobre 1958)では、「共和国大統領は2つの議会に、共和国大統領が読み取り、いかなる議論も引き起こさないという意思を親書により伝達する。(Le Président de la République communique avec les deux assemblées du Parlement par des messages qu'il fait lire et qui ne donnent lieu à aucun débat.)」(第1項)と規定されました。

2008年の憲法改正により、「共和国大統領はこの目的のために、上下両院合同会議で発言することができる。共和国大統領が出席していない場合、投票の対象になっていない討論では、共和国大統領が声明を出すことができる。(Il peut prendre la parole devant le Parlement réuni à cet effet en Congrès. Sa déclaration peut donner lieu, hors sa présence, à un débat qui ne fait l'objet d'aucun vote.)」(第2項)として、大統領が上下両院合同会議で声明できるようになりました。

憲法改正には、国民投票または上下両院合同会議が必要です。第5共和国憲法では、「法案または議員提出法案は、第42条の第3項に規定されたた期限内に審理され、上下両院合同会議で投票されなければならない。改正は、国民投票での承認後決定的になる。(Le projet ou la proposition de révision doit être examiné dans les conditions de délai fixées au troisième alinéa de l'article 42 et voté par les deux assemblées en termes identiques. La révision est définitive après avoir été approuvée par référendum.)」(第2項)、「しかし、共和国大統領が改正法を上下両院合同会議に委ねる決定をした場合は、国民投票は行われない。この場合、改正法案は、5分の3の過半数を獲得した場合にのみ承認される。上下両院合同会議の事務局所は、国民議会の事務局に置く。(Toutefois, le projet de révision n'est pas présenté au référendum lorsque le Président de la République décide de le soumettre au Parlement convoqué en Congrès ; dans ce cas, le projet de révision n'est approuvé que s'il réunit la majorité des trois cinquièmes des suffrages exprimés. Le bureau du Congrès est celui de l'Assemblée nationale.)(第3項)と規定されていますが、国民投票が行われたのは、ドゴール大統領が憲法第11条(の改正を巡って1960年と1969年に行った2回のみです。


参考文献: « Versailles : petites et grandes histoires », Le point, 15 novembre 2012, n°2096, pp.I-XX « La Salle du Congrès », Le Château de Versailles : http://www.chateauversailles.fr/decouvrir/domaine/chateau/salle-congres

ベルサイユは1870年まで第三共和制の政治の中心地でしたが、2007年からは、フランスの「二番目の大統領府(deuxième QG du Président de la République)」になっています。大統領(Président de la République française)の別邸があるからです。
第5共和制が樹立された翌年の1959年、シャルル・ド・ゴール(Charles De Gaulle)大統領は、「ランテルヌ(La Lanterne)」と呼ばれる邸宅を首相(Premier ministre)の別邸にしました。2007年にサルコジ(Sarkozy)大統領は、パリから約60km離れているランブイエ(Rambouillet)にある大統領別邸を嫌がり、約20km西にあるベルサイユの首相別邸との交換を望みました。それ以来、ランテルヌは大統領別邸になっています。パリの大統領官邸は、9月のヨーロッパ文化遺産の日(Les Journées européenne du Patrimoine)に一般公開されるのに対し、ランテルヌは固く門戸を閉ざしているほどセキュリティーが厳重です。

ランテルヌは、ベルサイユの司令官(gouverneur de Versailles)で国王狩猟官(capitaine des chasses du roi)のフィリップ・ド・ノアイユ(Philippe de Noailles)がルイ15世時代のため建てた3部屋しかない小さな狩猟小屋でした。小屋はその後拡張され、36ものフランス窓(portes-fenêtres)から差し込む陽光で明るく輝いていたために、「ランタン(lanterne)」と呼ばれるようになりました。フランス革命後の1794年、国有財産(bien national)とみなされ売却され、個人の所有になりましたが、1818年、ルイ18世は個人財産で買い戻し、改修後の1824年、ランテルヌは「王室所有地」になりました。1880年代には、資産家のモーリス・ド・ヒルシュ男爵(Baron Maurice de Hirsch)、その後はアメリカ人ジェームズ・ゴードン・ベネット(James Gordon Bennett)に貸し出されました。 第二次世界大戦でパリがドイツに占領されている間は、ランテルヌもドイツに接収されていましたが、戦後の1949年から1957年はアメリカ大使館によるパーティー会場として使用されました。
1959年からは首相別邸になりましたが、1962年から1969年までの7年間は、文化大臣(Ministre d'État chargé des Affaires culturelles)のアンドレ・マルロー(André Malraux)がブローニュ(Boulogne)の自宅がアルジェリア秘密軍事組織(Organisation de l'armée secrète contre l'indépendance de l'Algérie)に狙われたため、ランテルヌに住まいを移しました。

参考文献: « La Lanterne », Elysée, https://www.elysee.fr/la-presidence/la-lanterne « Versailles : le livre qui lève le voile sur la Lanterne, demeure secrète de la République », Le Parisien, 17 février 2017, https://www.leparisien.fr/yvelines-78/versailles-78000/versailles-le-livre-qui-leve-le-voile-sur-la-lanterne-demeure-secrete-de-la-republique-17-02-2017-6688971.php « À la Lanterne, la République se met à l'ombre des rois », Le Figaro, 18 août 2011, https://www.lefigaro.fr/politique/2011/08/18/01002-20110818ARTFIG00533--la-lanterne-la-republique-se-met-a-l-ombre-des-rois.php « Petites et grandes histoires de La Lanterne », Le Journal du Dimanche, 7 août 2014, https://www.lejdd.fr/Politique/Petites-et-grandes-histoires-de-La-Lanterne-679222

ベルサイユは1682年からフランス革命(La Révolution française)が勃発する1789年までフランスの宮廷で首都でした。 ベルサイユという語は、古フランス語「verser」(現代フランス語では「labourer(耕す)」)から派生した「versail(開墾地)」から来ていると言われています。ベルサイユには肥沃な土地が広がっていました。ルイ14世がベルサイユに宮廷を移した際に、土地の名前を「Villeneuve-Saint-Louis(新都市サン・ルイ)」に改名する意見もありましたが、ルイ14世はほとんど記憶のない父親(ルイ13世(Louis XIII))を懐かしみ、父親から譲られた土地の名前をそのまま使用することに決めました。 ベルサイユ宮殿は、ルイ13世が1623年に狩猟小屋(Pavillon de chasse)を建設した何度か増築されましたが、「château chétif(粗末な城) 」としてルイ14世の時代には取り壊される運命でした。ところが、マリー・テレーズ・ドートリッシュ(Marie-Thérèse d’Autriche)との結婚後、父親の遺産をすっかり気に入り、ここを居城にしようと大規模な工事を行いました。1682年に宮廷をベルサイユに移すと、貴族も移り住み、次々と大きな建物が建設され、フランス一の規模の都市になりました。 ルイ14世が1715年にこの世を去った後、弟のフィリップ・オルレアン(Philippe d’Orléan)はベルサイユを嫌って、権力の拠点をパリに移しました。曾孫のルイ15世(Louis XV)が戴冠すると、宮廷は再びベルサイユに戻りました。ベルサイユは1789年のフランス革命まで繁栄を続けました。革命によりルイ16世(Louis XVI)一家がパリに去って行ってからはパリが再び首都になりました。1870年に始まった普仏戦争(La guerre franco-allemande de 1870-1871)では、プロイセンがセダンの戦い(La bataille de Sedan)で勝利を収め、ビスマルク(Bismarck)宰相(chancelier)は完成偉したばかりの県庁に拠点を置きました。1871年1月18日には、最初のドイツの皇帝ヴィルヘルム1世(Guillaume 1er)が鏡の間で(Galerie des Glaces)戴冠式を執り行いました。ドイツは1871年3月16日にベルサイユを去りましたが、1919年に第一次世界大戦の講和条約(Le traité de Versailles)が締結されるまで、「ドイツ皇帝が戴冠式を行った場所」としてフランスにとって屈辱的な場所の象徴となりました。 1870年9月4日に第三共和制(La IIIème République)が樹立されると、ベルサイユに政府、議会、大使館、警察、中央銀行など、政治経済の重要な機関が設置され、1879年1月30日にマク・マオン(Mac Mahon)大統領が辞職して首都がパリに戻されるまで、ベルサイユは再び首都として輝きを取り戻しました。

参考文献: « Versailles : petites et grandes histoires », Le point, 15 novembre 2012, n°2096, pp.I-XX

このページのトップヘ